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覇王エリザベス1世のチャレンジャー戦略

エリザベス1世のリーダー術

エリザベス1世のリーダー術


※本稿は東京都中小企業診断士協会城西支部発行「城西89号」に私が寄稿した小論文を掲載したものです。

(1) エリザベス1世即位当時の王室

16世紀におけるイギリスの王位継承は、近親憎悪と謀略の歴史でもあった。1553年、プロテスタントへの迫害で知られ、カクテル名にもその悪名を遺すブラッディ・メアリー(血まみれのメアリー)ことメアリー1世が女王に即位すると、メアリーは異母妹のエリザベス1世をプロテスタントへの加担を理由にロンドン塔に幽閉する。1558年メアリー死去により、エリザベスが王位を継承する。エリザベスにはメアリー・スチュアートという従妹がいたが、エリザベス自身も、このメアリーを粛清し、45年に亘って在位することになる。 

2)エリザベスの対スペイン戦略

エリザベスの時代、世界最強国家はスペインであった。スペインは無敵艦隊を擁し、ポルトガルやオランダも支配下に置き、南北アメリカ大陸にまでその版図を広げていた。イギリスが海洋国家として世界市場に進出するためには、スペインとの衝突はいずれ避けられない状況にあった。
イギリスとスペインとの国力差を縮めるためにエリザベスは海賊を利用し、スペイン船から積荷を略奪することを思いつく。当時の海賊業はビジネスといってもよく、航海前に出資者から出資金を募り、戦果を配当するしくみである。エリザベスも海賊に多大な資金を拠出したが、海賊業による収入はイギリス一国(※注)の歳入以上の収益をもたらしたという。今日、国家ぐるみでサイバーテロ攻撃を仕掛ける、ならず者国家と当時のイギリスは同じような国家だったわけである。イギリスの国益のためには他国の資産をも強奪するというエリザベスの政治家としての信義則はともかく、その清濁併せ吞む策略は功を奏し、イギリスに富をもたらすとともに、スペインの経済力を確実に蝕んだ。その間、エリザベスは海外に着々と前線基地を築くことも忘れなかった。さすがにスペインもこの状況を黙って見ているはずはなく、無敵艦隊を英仏海峡に差し向け、イギリス本土攻略を画策する。これが「アルマダの海戦」であるが、エリザベスはここで“My loving people (我が愛する民よ)”で始まる「ティルベリー演説」により兵士を鼓舞し、スペインの侵攻を阻止する。エリザベスは女王として国を守るために、国防の意味と道筋を国民に示した。
世界市場におけるリーダー国スペインを陥落するため、エリザベスはスペイン国王に対し、オランダ植民地の反スペイン勢力との仲介を申し出るなど、巧みな外交術で時間を稼ぎながら、海賊業で経済力を高め、国力の接近したところで、海戦という正攻法でスペインを退けたのである。 

3)その後のイギリス

エリザベスの在位期間は、日本国内では織田信長から豊臣秀吉、徳川家康へと天下取りが継承された時期と符合する。実際、エリザベスはイギリス製カルバリン砲を家康に売却し、そのカルバリン砲で大坂城は攻撃され、豊臣家は滅亡する。エリザベスの没した1603年に江戸幕府は開府している。中世から近世への過渡期に洋の東西において、それにふさわしいリーダーが歴史の表舞台に登場してきたわけである。
エリザベスの女王としての歴史的評価は賛否両論のようである。アルマダの海戦でスペインを退け、ヨーロッパ列強内での国際的地位が向上したとはいえ、イギリスが海洋を支配するにはまだ長い年月を要した。しかしながら、エリザベスが世界に残した東インド会社をはじめとする前線基地が後のイギリスの世界戦略・植民地政策に寄与したことは確かであろう。イギリスが近代国家へと進む過程において、エリザベスの功績は、播種行為にすぎなかったのかもしれないが、その芽は着実に息吹き、やがて大英帝国は、世界に君臨する覇権国家として“パクス・ブリタニカ”を開花させるのである。 

(※注)エリザベス1世は正確にはイングランド女王であり、今日のイギリスという呼称はグレートブリテン連合王国合邦以降の国家に使用すべきだが、本稿では簡明さを優先し、統一してイギリスと呼称した。 

【参考文献】
青木 道彦「エリザベス1世」講談社現代新書 2000
竹田 いさみ「世界史をつくった海賊」ちくま新書 2011年

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